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ごとう兼位(かずひこ) ハート&ハート活動日記

― 活動内容を紹介します ー

このページは、石巻市議会議員 ごとう兼位(かずひこ)の活動日記です。
活動日記のほか、日々感じた事も話題に、少しずつですが紹介していきたいと思っています。

皆さんのご意見をお待ちしています。

■2011年4月27日(水) の日記
<<復興基本方針>>
PM3時から、第2回市議会・東日本大震災対策会議が開会。現在の被災状況および復旧状況について、今後の対応について協議。
市当局から、「石巻市震災復興基本方針について」説明があった。夢や希望の持てる新しい石巻市として復旧・再生・発展を遂げていくため、根幹となる基本的な考え方として、1.災害に強い街づくり、2.産業・経済の再生、3.絆と共同による共鳴社会の構築を図るという復興の基本理念として3点が示された。
計画期間は、復興に当たっては、復旧期や再生期、発展期を経た概ね10年後の平成32年度の姿を見据えた計画を策定。復旧期は平成25年度まで・震災から概ね3年間。再生期は平成29年度まで・震災から概ね7年間。発展期は平成32年度まで・震災から概ね10年間となっている。今後、11月の「復興基本計画の確定」を目指していく。
義援金について、三浦一敏議員から石巻市の対応の遅れが指摘された。市の対応は、配分委員会を5月上旬に行い、5月下旬から義援金を交付する旨答弁があった。しかし、「被災者の窮状を考えれば速やかに配分すべきだ。」
小生からも関連して、り災者、被災者証明が交付されている現状において、速やかな義援金交付を行うべきと指摘した。
義援金は、人的な被害者に35万円、家屋の全壊35万円、半壊18万円となる旨説明があった。
市役所本庁舎1階の商業スペースは、震災後48日間経ったがいまだ再開の兆しは見られない。行政財産の有効な活用の視点、復興のシンボルとしての庁舎一階の廃墟的な風景は1日も早く改善すべきと指摘した。入居に当たっては、プロポーザルによる業者選定の結果、賃貸借契約を行った物件である。契約解除も含め早急な対応が求められる。

■2011年4月26日(火) の日記
<<人口減少>>
PM1時30分、市議会・雇用と定住促進対策特別委員会開会。東日本大震災後の本市における雇用確保策について、産業部、生活環境部、健康部より説明を受け質疑を行った。
瓦礫処理に関連して、全壊は2万5千棟、半壊1万279棟、床上、床下浸水等の被害を加えると約407万1千トンの瓦礫が出るという。この処理に関しては膨大な人員と年数がかかる。地道な仕事となるが、しかし、復興にとって重要な仕事となる。
大震災後、雇用と定住促進が重要な問題であるが、石巻市の人口は、震災後転出2,565人、震災の被害者等の死亡者2,871人で約5千人の減少となり16万人を割り込み約15万8千人となった。行方不明者も2,770人いる。
石巻市震災対応臨時職員の募集248人では悪化した雇用情勢の改善には程遠い。

■2011年4月25日(月) の日記
<<課題山積>>
PM1時30分、市議会産業建設委員会が401号会議室で開会。東日本大震災の被害状況と今後の対応策等について、産業部、建設部、生活環境部から説明を受け、質疑を行う。
その中心は、瓦礫の撤去と仮設住宅の建設状況だ。各部において懸命に努力されているが、その課題はあまりにも膨大で、対応に苦慮していることが身にしみて実感する。

■2011年4月24日(日) の日記
<<跋扈>>
悪言が跋扈する議会ではいけない。大震災の被災者に対して、「避難場所から早く出て行け」、「家族でただ飯をいつまで食っているのか」と蛇田選出のK市議が悪言を跋扈する姿は尋常ではない。
一度口から出した言葉はもう取り消すことができない『吐いた唾は呑めぬ』!!

■2011年4月23日(土) の日記
<<不安の連鎖>>
われわれの財産だったものが瓦礫と化してしまった。その瓦礫の撤去で、皮肉にも日々悩んでいる。
現行法と制度が誰のためにあるのか、それらが機能しない、想像以上の大震災が現実として立ちふさがる。「市民の不安、苛立ちの連鎖」が止まらない。

■2011年4月22日(金) の日記
<<「三位一体」で>>
AM9時、市議会・産業建設委員会、雇用と定住促進対策特別委員会と石巻商工会議所の懇談会が商工会議所会議室で開催された。テーマは「石巻産業経済の復興について」。
3.11東日本大震災後の活動経過を商工会議所側から説明を受けた。「経済崩壊」、「雇用喪失」、「人口減少」、「まちの衰退」等の危機に直面している今日の石巻において「三位一体」で課題解決に取り組んでいくことを確認、「復興会議」の設置が提案された。

■2011年4月21日(木) の日記
<<被災の中入学式>>
PM2時、石巻市立青葉中学校平成23年度入学式が挙行された。体育館と一部教室は、被災された約500人の避難場所となっており多目的ホールで質素な入学式となった。
今野校長は「ゆとりのないまま入学式を迎えた、大震災により12人の生徒の命を亡くした。」しかし、「大震災にめげず下を見ないで、前を向いて歩んでください」「明るく思いやりのある大人になって、歩幅は小さくても一歩前進する」ことを新入生に式辞で述べた。新入生を代表して鈴木君が「新しい青葉中学校を創っていきます」と力強く誓いの言葉を述べた。

■2011年4月20日(水) の日記
<<「リセットして考える」>>
3月11日の大震災以降、「物質文明」、「社会・地域コミュニテー」、「人間」等々、「リセットして考える」ことの必要性を認識している。
そろんばんで言えば「ご破算ねがいまして」となるか。しっかりとした理念を持った地域社会の再構築が求められる。

■2011年4月19日(火) の日記
<<「被災者復興支援住宅」の建設>>
大震災による諸問題の解決の第一歩は、仮設住宅等の住まいの問題だ。仮設住宅はあくまで仮設であって、本格的な被災者の住まいを如何に復興できるか、当事者の努力はもちろんだが、公的な支援なくしてその問題を解決するのは不可能だ。
同時並行的に市営住宅「被災者復興支援住宅」の建設の推進が重要だ。人口流失を防ぎ、定住人口を確保し復興の起爆剤とすべきだ。

■2011年4月18日(月) の日記
<<目線>>
21日に、市内の小・中学校の始業式が予定されている。被災地区の学校施設には、今日現在も被災者は避難している。まったく被災していない地区の学校と、被災している地区を画一的に判断することはできない。市教委は「21日ありき」が画一的手法と化してはいないか。
根本的問題は、仮設住宅の建設の遅れが原因ではあるが、市教委の対応は、他の部との連携が欠如しているとの批判を受けている。目線をどこにおいているのか。

<被災地の学校には半旗が−写真>

■2011年4月17日(日) の日記
<<問題解決の工夫>>
仮設住宅の建設はかなり遅れている。下釜第一町内会のように約1,000世帯を有する地域コミュニティーが、大震災により崩壊した。仮設住宅への入居を希望する被災者を「地域ごとのまとまった入居を考える」ことが大切だ。抽選で決まるが、高齢者ばかりが固まらないようにするとか、一人暮らしを固めないなど、抽選で入居者を決めるというが、単純な抽選ではなく、そこには工夫が必要だ。地域コミュニティーの早急な再興には重要な事項だ。

<大震災の前日(3月10日)。釜会館を会場に下釜第一町内会「遊びりテーション」が開催され、多くの会員が参加した。−写真>

■2011年4月16日(土) の日記
<<仮設住宅>>
一向に進まない仮設住宅の建設問題。宮城県が主体に進めているが、石巻市の必要戸数1万戸はいつの時点間でかかるのか。
石巻市民に対して、そのスケジュールを示してほしい。
21日からは、小・中学校の始業式が行われる。現在小・中学校に避難されている人たちの対応も大変だ。
一日も早く、避難民が仮設住宅へ住めるようにしなければならない。一部業界団体だけが独占的に仮設住宅を取り仕切っているところに大きな矛盾がある。
<中瀬の瓦礫の中の漫画館・写真>

■2011年4月15日(金) の日記
<<中心市街地の再興>>
中心市街活性化基本計画が国から認定され、これからその具体的な取り組みに移行する時、今回の大津波はその計画をも根本から流失させた。
中心市街地の商業施設等が甚大な被害を受けたが、その再興に大いに期待したい。
<中心市街地の津波の傷跡・写真>

■2011年4月14日(木) の日記
<<時間の分水嶺>>
被災にあった人は、3月11日午後2時46分を境に時間の分水嶺ですべてが変わった。着の身着のままで逃げた多くの人。自身もスーツ1着、ネクタイ1本、車のトランクにたまたま積んであったコートだけだ。
当日午前中に行われた青葉中学校の卒業式。その出席者の親子も犠牲者となった。笑顔でビデオカメラを回していたある父親の姿が脳裏を離れない。卒業式に感動し涙した卒業生、その仲間にも多くの犠牲者が出た。
久々に見たテレビ、CMで繰り返し流れる「頑張ろう日本」のメッセージは厚意には違いないのだろうが、何かオリンピックかイベントのCMとしか見れない。われわれ被災者の耳にはどこか遠い、はるかに遠い世界の大合唱に聞こえてしまう。
震災以来途絶えていたメールも普及。大崎市議会の門間忠議員から「地域の復旧復興と市民の安全安心のためにがんばりましょう」と激励のメッセージが届いていた。
<大津波による基礎部分しか残されていない自宅・写真>

■2011年4月13日(水) の日記
<<瓦礫との戦い>>
いまだ行方不明者を探す人が多い。瓦礫の中に一ヶ月もの長い時間閉じ込められていることを思うときやるせない。
しかし一方において、日常生活を取り戻そうと努力している。
文明の器は、津波によって破壊されてしまった。それを取り戻すことの大変さ。マイナスからのスタートだ。
<写真・瓦礫の中で>

■2011年4月12日(火) の日記
<<復興目指して。>>
「復興目指して。ガンバロウ石巻!!」
街中で、潟sンキオの社屋に掲げられていた。
市街地、半島部等の復興に対して、地震による地盤沈下や堤防決壊等を踏まえて抜本的な土地利用を見直さなければならないのではないか。
具体的な処方をも含め市民に対して早急に示してほしい。
震災後、街行く人に余裕というものが欠如している。歩行者、自転車は特に交通ルールは失われ気味だ。刺々しさが交差する、荒野と化している。市民に対して「希望」と「目標」を与えることにより、「余裕」を取り戻す方策がほしい。
自然は情け容赦ないが、津波の被害を受けなかった桜の木々には春の息吹を垣間見ることができる。市民の心にも「希望」という花を咲かせてほしい。

■2011年4月11日(月) の日記
<<復興を目指して>>
3月11日から1ヶ月。いい意味で戻りたいという本音の人が多い。どれほどの人が助かったろう。自然は情け容赦ない。
今日も、数分おきの地震に見舞われ、津波警報のサイレンが不気味に響く。
生き残ったものが、すべての再建を担う。
自然の脅威の前に人間はなすすべがないことを思い知った。しかし、復興を目指して歩まなければならない。生き残った者の証として。

■2011年4月8日(金) の日記
<<「復興の第一歩だ」>>
 7日午後11時32分ごろ、宮城県北部と中部で震度6強の地震があった。気象庁は県沿岸部に最大1b程度の津波の恐れがあるとして津波警報を発令した。地震直後から停電、断水。津波警報を知らせるサイレンの音が不気味だ。
せっかく回復してきたライフラインも、すごろくの振り出しに戻ることになった。容赦ない自然の猛威に唖然とする。
早朝から水汲みの列が再び見られた。
街中を埋め尽くす瓦礫の撤去こそ「復興の第一歩だ」、早急な対応が必要だ。

■2011年4月1日(金) の日記
<<廃墟の中から>>
東日本大震災の巨大地震以降、ホームケージの更新も途絶えていた。家屋が根こそぎ流失、基礎だけが残っている状況を見たとき、自らの歴史も流された思いだ。
午後、津波の犠牲者を見送った。火葬は県外で行われることが多く、その犠牲者の多さを垣間見た。




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